初めまして、前堀航輝です。
僕はプロスキーヤーとしてワールドカップを転戦していたのですが、怪我をキッカケに引退しました。
怪我をした時は、絶望の中にいました。
しかし、そのタイミングでこの講演会に出会い、新しい目標を持つことができるようになりました。
目次
絶望を味わったキッカケ
2012年10月、日本代表としてオリンピックや海外の大会に出場する為に選手が集められる、体力測定がショナルトレーニングセンターのJISSで行われました。
ワールドカップに出場するということは、日本代表として派遣されていく形なので、最低限クリアしなければいけない体力測定の基準があるんですね。
基準をパスすることで、初めてスタートラインに立つことになるのですが、その日、僕は絶望を味わうことになりました。
前十字靭帯損傷
体力測定中に怪我をし、診断されたのは選手生命に関わるもので、上下に分かれている膝関節を繋げる十字靭帯の損傷。
骨折とは違い自己治癒だけでは修復されるものではないので、怪我を治す為には再建手術が必要になります。
手術をすると半年間のリハビリが確定するので、アメリカ遠征を控えいているこのタイミングで手術をすれば、シーズンを棒に振ることになり、必然的にオリンピックへの道も断たれます。
残された2つの選択肢
前十字靭帯をけがした選手の選択肢は2つです。
- 再建手術をして、半年間のリハビリ後復帰
- 手術をせずに装具と痛み止めでごまかしながら現役続行
僕が選んだのは2番でした。
なんとかなるだろうと楽観的に考えていましたが、少しトレーニングをするだけで、腫れが止まらず、常に痛みとの戦いを続けていく中でどんどん自信喪失していき、
父親に泣きながら電話をして、自分はどうすべきなのか相談したのをハッキリと覚えています。
それでもなんとかランニング、ウェイトトレーニング、ウォータージャンプ、トランポリンとバイトをしながら
トレーニングを続けていくなかで遠征にいける身体になり、半年間の戦いがスタートです。
夏の仕事としてはパラグライダーのインストラクターをやっていたのですが
その仕事もできるはずがなく、バーでバイトしたりしていました。
アメリカの生活とシーズンの締めくくり
遠征のスタートは11月中旬から始まりますが、全世界からアメリカのコロラド州デンバーの近くにあるコロラドスプリングスエリアに選手が集まります。
選手は各々で家を借り、数ヶ月間そこを拠点にトレーニングしながら、コンペ(大会)に出場していきます。
アメリカチームやフランスチームなどはコーチが帯同しており、食事も専用のスタッフがつき、最高の環境でトレーニングをしています。
日本のチームは当時まったくチームとして機能しておらず、個人個人が集まって一緒に生活をして、お互いにビデオを撮り合いながらあーだこーだやっています。
春~秋に貯めた限られた資金の中で、トレーニング環境を整え、毎日トレーニングと、大会を繰り返す日々は、最高にエキサイティングで楽しい日々でした!
アメリカでの遠征を終え、日本で行われたアジア大会で怪我を押して2位になることができました。
当時、誰もやったことのなかったトリック(技)を決め、着地で少しミスってしまい2位終わったのが悔しくもありましたが、自分の中では納得のいくシーズンの締めくくりになりました。
人生を変えた幼馴染との会話
シーズンを終えて、翌年2014年に控えるソチオリンピックへの出場は難しいという結果に終わり
4月29日、東京の某病院で前十字靭帯の再建手術を受けることにしました。
ここが人生の大きな起点になったと今では確信しています。
暇な入院生活が人生を変えた
暇だったんです。
膝の怪我だったので、身体はいたって健康で、でも動けない。
使えるのはPCとスマホと本ぐらいで、人生で初めてと言っていいぐらい自分の人生のことについて考える”時間”ができました。
自分の頭の中をとにかく書き出してみて、これからの人生の選択肢をどう決めていくか考えていました。
また当時の選手生活を応援して支えてくれていた人たちがお見舞いにきてくれました。
その中でも地元、白馬の幼馴染がお見舞いにきてくれたのですが、彼は起業していたのです。
父が自営業だったこともあり、僕も雇われて会社で働くということのイメージがまったくなく、何か自分でやるんだろうなあという思いは持っていたのですがなにげなく話している中で、自分が今おかれている状況から、
『会社で雇われるのではなく、自分で何かはじめて、今までみたいに海外飛び回れる生活をしたい!』
と話していたら、面白い人がいるから紹介してくれることに。
今思えば、あの会話が人生を変える大きなきっかけになりました。
退院後に参加した人生戦略セミナー
細かいことを気にするタイプではないので、講演会のタイトルがどうとか、講師がどんな人なんだとかは全く気にしていなくてとりあえず、その友達が面白いからって言う軽いノリで、松葉杖で参加。
「初めまして」
茶髪に軟骨ピアス、松葉杖をついた僕の姿をみて、講師の細金さんは一瞬時が止まったかのような反応
「おう」
っと素っ気無い感じ 笑
下の名前が同じ”こうき”だったこともあり、少し盛り上がったところで講演会開始のアナウンスの後、手術が終わったばかりの膝をかかえて、特別に2席用意してもらって講演会がスタートしました。
初めて聞いた感想は『衝撃』という二文字
講演会が終了した時の感想は
「終わった…」
ほんと、こんな感じ。
情報量も多くて、勉強・受験とは無縁の世界で生きてきた自分にとっては全く知らない世界の話ばかり。
お笑いをやっていたという細金さんの惹きつけるトーク力を目の当たりにして残った印象は、『衝撃』(インパクト)という二文字。。
スタッフになりたいと思った理由
自分が住んでいる日本のことなのに、こんなにも興味を持たずに生きていたのかと思いながら、スタッフになりたいなあと思った明確な理由は一つ。
楽しそうだったから
講師はもちろん、スタッフの方たちが自分の人生を生きていて、楽しそうにしていたのが一番大きかったと思います。
今までも楽しくやっていましたし、明確に目指すものがあり”挑戦”している感覚でしたが、
その時とはまた違ったわくわく感、経済的な余裕を持って、やりたいことをやっている講師の生き方をみて、
「こんなに自由に何でも実現している人がいるのか」と、興奮気味で帰路に着いたのを覚えています。
スタッフになって持った夢
講演会に初めて参加してから何度かリピートしながら理解度を深める中で、あるきっかけでスタッフになることに。
講演会は一分一秒わくわくドキドキがテーマで、チャレンジする大人を作りたいという想いで運営しています。
僕自身の人生は常にやりたいことをやってきて、夢を追う人生を送ってきましたが
初めて東京にでてきて、今までとは違う人たちとの交流が増える中で、もんもんと自分のやりたいことにフタをして、生きるために仕事をしている人たちをたくさんみて来ました。
今度は運営として、そういう人たちにキッカケを与える側として、講演会を作り上げていく立場になったのです。
スタッフとしての夢を抱くように
先日、29歳の誕生日を迎えた時に父が僕に送ったメッセージの中に
「父さんの人生はまあ、やりたいことやってきたかな。まだ人生はあるから新しいことをなにか始めようと思っているよ。」
という66になる元気な父からメッセージを受け取って、ああ、やっぱり父親の背中を追ってきたんだなあと強く感じました。
僕の周りはチャレンジする人しかいなかった。
だから僕自身もチャレンジする人生を選んできたし、その人生が最高にエキサイティングで、最高に楽しい。
チャレンジする大人が増えれば子どもたちもチャレンジする大人になって、結果として日本という国が元気になる。
そんな想いを持って、スタッフとしての誇りを掲げて毎月運営スタッフとして携わっています。
前堀航輝としての夢も新しくできた
講演会に関わる中で、オリンピックという目標を失った僕にも新たな目標、夢ができました。
やりたいことは書き出すと200個ぐらいあるので、ここには書き出しませんが、根本的に思っているのは
”僕と出会った人にわくわくして生きるきっかけ、選択肢を与えたい”
方法はなんでもいいんです。ビジネスでもパラグライダーでもスキーでもアウトドアでもなんでも良いのですが
選択肢を広げるきっかけをつくることで、「心からやりたい、こう在りたい」と思ってもらえるようなハブになりたいと思っています。
僕の周りにいる人がわくわくして生きてること
それが今の僕の夢です。
最後に
最後まで読んで頂いてありがとうございます。
自分のストーリーを話す機会は多いのですが、こうして文字に起こしてみると
講演会に初めて参加した時の気持ちや、その時の状況を思い出して、改めて講演会への想いが強くなってきました。
初めて参加される方にとっては、初めての場所に参加すること、いつもとは違う自分に出会うことは怖さもあるかと思いますが、その怖さにわくわくが勝つ時が変化の時だと僕は思います。
人生を輝く航海に。
僕の親が想いを込めてつけてくれた名前です。
頭ではなく心で感じて、自分の人生の航海を楽しんで、選んだ道を正解にしていくきっかけになれば嬉しいです。
ありがとうございました。